『批評とは何か』

(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス

(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス

ほとんど同時期に「批評とは何か」と冠した本が二冊出た。一冊はテリー・イーグルトン『反逆の偶像 批評とは何か』で、もう一冊が上で紹介したブレインズ叢書・佐々木敦『批評とは何か 批評家養成ギブス』。この全くの偶然は単なる偶然であって偶然でしかないので、両方読んでみようと思うことは少しはあったけど、案の定すぐに後者の本を読んでしまったので、紹介してみます。
まず、(ここから始めるのもどうかと思うけど、大事なことだから書いておきますが、)ボリュームがかなりある。読むのにかなり時間がかかります、なかなか前に進んでいかない。ひとつは(全十回にわたる講義録なので)口語体ということもあり比較的文字数がかさんでしまう点。もうひとつはかなり丁寧な解説によって講義が構成されているので、どうしても回りくどく遠回りな話し(書き)方になってしまう点。この二点はある意味で凄く否定的な感想と取られかねませんが、そうではなくて口語体は文章に凄くフローな効果(著者は「あとがき」で「息づかい」と表現していますが)を齎しているし、丁寧な解説はこの「批評家養成ギブス」というタイトルが諧謔や冷笑でもなんでもなく、嘘偽りのない、本当の意味で「批評家を養成する」という、受講生(読者)に対しての真摯な態度を感じました。
第一章「批評家養成ギブスでは何をするのか」では著者の批評感・定義・哲学などが語られています。この第一章がとにかく重要。そもそも『批評とは何か』というかなり挑戦的なタイトルは、著者・佐々木敦自身の批評感が「まさにこれ批評」たる自信と確信に支えられているからこそ付ける事のできたタイトルだと思う。その1章の批評感を補完するために後の9章があるといったら、それは失礼な話なので、そんなことはないです。
第二章からは「音楽」「映画」「文芸」「その他ジャンル」とジャンル別に批評を解説していますが、大まかな流れとしては、①著者自身の仕事→②批評の巨人達を紹介→③批評の(不)可能性→④課題が出る→⑤受講者の批評→⑥インタラクションという感じで話が流れていきます。この一連の流れの中で、②と③(あるいは②と①)の間にある差異は何なのかを考えなくてはいけない。つまり、「批評界にはかつてこういう方法論もあった」と。しかし「私(著者)は批評というものはこういうものだ(でない)と考える」という構造があって、それはどちらが正しいだとか間違っているだとか、善だ悪だ、という話とは全く別に(著者自身も決してそういう語り口ではないですし、)、確実にその間にある種の断絶があるということ、それ自体がこの本の読み応えにつながっているといえる。なんて自分でもよく分からない書いてみましたが、普通に歴史のお勉強としても楽しめるので悪しからず。
前述した内容とは異なってくるけど、文中には「批評はOOではない」かといって「批評はOOということでもない」というロジックが頻出します。(全く同じ話が反復しているということではないのです。)例えば、(これはぼく島の増刊号で著者自身が語っていることですが)「批評は表現ではない」が「結果的には表現たりうる」というところにおちついてしまう、かといって「批評は表現だ」とことに居直って「批評で表現する」ということを自己目的化してはいけない、というようなロジックです。つまり、この頻出するロジックは批評というものが簡単には断定することのできない、極めて繊細な構造で成り立っているということを顕著に表しているのです。であるからして、私達は批評というものに、漸近的にでも接近していかねばならないために、この本を読まねばならないのです。(←これは良い宣伝ww)
少し僕の話をしますが、僕は批評を意識的に書こうと思ったことも、書けると思ったことも、いわんや書けたこともないのですが、それでも批評というものに少しでも近づければいいと思っているし、むしろ、それをあきらめてしまった時点で僕自身でも凄くつまらないと思えるような文章を書いてしまうのではないかと危惧しているのです。つまりただ単に「批評は書けない」のであって(だからこそ勉強しなければならないし)、かといって「書かない」のではない。これは上のロジックに通じるところがあると思う。
話はコロッと変わりますが、僕が何より驚いたのが、予想外に批評についてのテクニカルな話が多かったところ。例えば、「とりあえず読んでおくべき10冊(音楽批評)」やら「批評を始めるにはOOを馬鹿にしちゃいけない」やら「オチはこうすればいい」とか。正直ここまで具体的、実践的な<批評学>が語られていようとは、(これまた失礼な話ですが)正直、非常に意外でした。
この『批評とは何か』の真髄は「批評が書ける」ようになるということなどではない。つまり読めば読むほど「批評は誰にでも書きうる」ということの、逆説的な困難性が浮き彫りになってくる。「誰にでも書きうる」からこそ私の書く批評が「批評」として成されるということがこんなにも困難なのである。この本は、むしろ「批評が書きたくなる」本なのです。それはまさに読んだ後で「セカイが変化している」という、この本の大きなテーマそのものなのだと感じた。だから僕は今このブログを書いている。この本について批評しようと試みている。(最初に「紹介します」などとエクスキューズを踏まえたうえで。)

いつまでたっても批評にならない。
それでも批評をあきらめない。