例えば、小説でも音楽でも漫画でもブログでも何でもいいけど何かそういうものを消費した時に、人間は意識/無意識関わらず価値判断をするわけですよね。この曲は良いとか、つまんないからもう聴かないとか。この番組は面白いから毎回ダウンロードしようとか。そこには良い/悪いっていう2項対立の価値判断があるわけですけど、一方で、価値判断する以前に消費してみたら「なんじゃこれ?」ってなって、頭の上に「?」が灯る場合がある。いいか/悪いかすらも判断できない、ある意味では麻痺しちゃってる状態。そもそも良い/悪いって言う価値判断は往々にして相対的なものだから(あの曲よりも良い/悪い、あの小説よりも有意義/無意義)、全く経験のない、これまで消費したり摂取したりしたことのないものが提示されてしまうと、よくわかんなくなって、価値判断できなくなる時がある。
んで、この「なんじゃこれ?」ってなるものが(むしろ良いと思うものよりも)とても面白いものなんじゃなかろうかと、最近では思っています、という話。というのは、「なんじゃこれ?」ってなると宙吊りが気持ち悪いから、良い/悪いの判断ができるところまで自分を持っていきたいという動機付けが生まれてきて、そこまで自分を持っていくには、とにかく反復して「分かる」まで消費することか、解説やら批評やら外部からの新しい切り口を自分の中に組み込むか(その両方か)ということになるんでしょう。
特に音楽でそういうものに遭遇してしまった時には、とにかく分かるまで反復してみる、ということが僕は好きで、だんだんと「あーやっぱいいわ」てなるプロセスが一番気持ちよかったりする。(大体は「やっぱ意味分かんない」ってなるけど。)僕は自分でも自分が「動物化」してしまっているなぁと時々絶望を覚えたりするんですが、こういうプロセスを自分が踏んでいると意識した時に「なんだ、まだ人間っぽいじゃん」なんてホッとしたりするのです。反復するということに関して「音楽」は構造上の適合もあるとおもう。アルバム単位で最長で70分ほどだし、聴覚しか使わないから、別のことしながらでも聴くことができる(例えば歩きながらとか)。
小説なんかだと、「なんじゃこれ?」ってなったときに、反復する方向にあんまり向かわない。多分わけの分からない本に遭遇したとしても、続けて二回読むってことはあまりないと思う(少なくとも僕は全くない)。むしろ外からの解説で自分を納得させる方向に持っていくか、最悪の場合「なんじゃこれ?」のまま、次の「なんじゃこれ?」の捜索に向かってしまいがち。同じくこれは小説というものの構造自体に依拠している行動なんだと思う。つまり小説読んでいる時は小説を読むことしかできないし、あと結構時間もかかるわ、しかも音楽と違って(ミステリとかだと)カタルシスが一回性になので、1周目は全く分からなかったのに、5周目に「あ、これ!全部分かった!!!!1面白い!!!!!!」なんてほとんどならないと思うし・・・(したことがないからわかんないけど)。
映画なんかだとどうだろう。やっぱり小説なんかと近いか。
漫画は?小説と近い。
ダンスとか演劇は?多分どちらともいえない。
(やっぱりストーリー性の有無、多寡/カタルシスが一回性か否かっていうのが大きいですね。*そういう意味で七尾旅人「911Fantasia」はとてもとても接触に手間取ったさくひんでした。)
あと、なんじゃこれ?から一定のプロセスを踏んで「あーやっぱいいわ」てなる作品は凄く自分の中で消費の耐用性が高いと思う。ようするになかなか飽きない。大体最初から「良い!!」てなるものはすぐに飽きてしまう。やっぱり消費するスピードも速いし、時間性の問題もあるから、すぐに陳腐なものになっちゃう。もういいよ、良いのは分かったから、おなかいっぱい・・ってなっちゃう。とにかく、これからも膨大な数の「なんじゃこれ」と遭遇してしまう現実に興奮するか、しないかはひとそれぞれだし、そもそも、それを望むかどうかもひとそれぞれ。それでもやっぱりみんな動物から脱却して人間でいた方が多分世界は広がると思う今日この頃。