わかること、つなげること

例えば僕は池田亮二って音楽家が好きなんですけど、いわゆる<音響派>といわれるような音楽は本当にわけがわからないわけです。ピーッピピピ・・ジージジジ・・・電子音ノイズがリズムを構成して、その集合体がグルーヴとなってカタルシスをもたらすわけですが、この音楽(音?)を本気で好きってことを多分なかなか信じてもらえないと思うんですよ。ようするに、僕が音響派を聞くのは、「音響派を聞く<私>」というメタ構造を消費していると疑われるわけです。もっと咀嚼すると、本当にその音楽をカッコいいって思っているわけではなくて、そういう音楽を聴いている俺がカッコいいっていう逆照射的構造だろ!?って言われるわけ。もうこれは仕方ないんですが、最近は面倒くさくて反論する気も失せています。

例えば、僕が今現代美術とかを急に好きになって「これは俺に分かる!」ってえらそうに評論しだしたら、多分その「わかる」は<真>でいられるんでしょうか?何の経験/体験を持たずして「分かる」を表明することは<アリ>なのか?全く分かりませんが、多分信用性の意味では低いでしょう。圧倒的に対象物を消費できていないということは相対化できない、すなわちこれが<分かる>っていうことは対極に<分からない>もあるはずで、それを確かに認識しなければこの<分かる>は多分嘘ということになります。もっといえば、<分かる>を自覚することより<分からない>を自覚することの方が実は凄く稀で、圧倒的に対象物を消費することを必要とするんじゃないんでしょうか・・とはいえ、そうなってくると脳内アーカイブにどれだけの量の消費物を貯め込んでいるかっていう問題が絶対になるわけで、でも実際そんなわけはない。

そうなると実は重要なのは対象同士をリンクさせる批評力だと思うわけです。つまり対象を(時にはジャンルレスになってもいいが)繋ぎながら類似点、相違点を発見/反芻/往復しながら真理にたどり着けばいいわけです。勿論、どの線を引くか(どの対象同士をリンクさせるか?)はほとんど閃きときっかけと運と、絶対的にセンスが大事なんだろうと。勿論、3本の直線は面を生み出すわけで、領域で論じてもいい。つまり対象物という点ではなく、線/面で表現することが実は非常に魅力的で説得力を内包した話題を提供するのではないでしょうか?という問題提起をここではしたいと思います。