倫理学から古谷実へ

毎週金曜日は哲学の講義を受けているが、主なテーマはカントとヘーゲルで、理念性・身体性・共感性それから特殊から普遍なんかを考えている。それで6月の末にミニレポートがあって、何かの題材を取り上げながらこれらのことを考えろとのことだったので、古谷実を論じようかな、なんていうことをボンヤリと考えている。(きっかけは佐々木敦古谷実論」『ソフトアンドハード』から)

古谷実といえば、デビュー作『行け!稲中卓球部』があまりにも有名であり、その作品のスタンスからギャグ漫画家という印象が強いようであるが、『グリーンヒル』以降(とりわけ「ヒミズ」以降)の4部作は個人に内在する暗部を描き続け、ギャグとシリアスを反復運動しながら物語を進めていく作風へと変質している。それはさておき、古谷が描くキャラクター達は常に普遍性(「ここにないもの」)に憧れ、自分の持つ特殊性(「ここにあるもの」)の内で苦しみあがき、悩んでいる。如何に少しの考察を掲載する。

ヒミズ』住田
中学3年生。両親は離婚し母親と川沿いに住み、貸しボート屋を営んでいる。常に現実的で平凡な生活を望む。(中略)ある事件をきっかけに、中学生なのに保護者のいない孤独な暮らしをすることとなり、自分が「特別な存在」に墜ちてしまったことに絶望する。それ以来学校へは行かず、「悪い奴」を殺すためにひたすら街を徘徊する。

住田という人物は絶望的に普遍性を追い求める人物として描かれているが、その意思に反して作品の中盤から圧倒的な特殊の渦に埋もれていくことになる。彼は自分の特殊性(これが圧倒的なルサンチマンとして立ちはだかるわけだ)を覆い隠すために、他者の特殊性を倒壊させようと試みて、殺人という行為に没頭するようになる。だが、殺人という行為の持つ特殊性は明らかにこの行動に逆説的な意味をもたらしている。住田の自殺という結末は殊性性が臨界点に達したことによるものである。

シガテラ』荻野
高校生。成績はあまり良くなく、容姿も中の下といったところ。将来の夢も特に持っていない。それどころか、いじめられっこでうだつの上がらない自分に自信が持てないでいる。学校では、谷脇からひどいいじめを受けている。ふとしたきっかけからバイクに興味を持ち始め、教習所に通いだすが、そこで南雲ゆみと出会い交際するようになる。そんな彼の身に、非日常という毒が度々襲い掛かる。

荻野はいじめられっこという特殊な日常を生きているが、ある日何の理由もなく彼女ができる(古谷実的救済はある種、花沢健吾のそれのアンチテーゼといえるのではないか?)。住田とは全く逆で、荻野は普遍の海にいきなり放り込まれ苦悶する。ある一部分では普遍を手にいてしまった自分が最も特殊な存在としてルサンチマンとなってしまうのだ。シガテラには特筆すべきキャラクターが沢山出てくるが、この考察は期末レポートに回したいと思う。ところで最終回は少なからず多くの読者にインパクトと絶望を与えるものだったと思う。最後に「僕はつまらない人間になった」と振り返る荻野の態度はある種普遍への断念ともいえるし、住田とは全く逆の悲劇を迎えているという考え方もできるだろう。

わにとかげぎす』富岡
スーパーで夜の間警備員を勤める32歳の独身男性。肩まである長髪だが、額がだいぶ広くなっている。これまでの人生をほとんど家で寝て過ごしていたため、友達や恋人といった心から交流できる存在を持ったことがなく、それを後悔し、友人ができることを心から願うようになる。羽田と一夜を共にしてから女性やセックスに対して強い関心を持つようになる。上原殺害の雨川の社会的責任を自ら感じ、スーパーの警備員を辞職する。

富岡にも荻野と全く同じ構造において圧倒的な救済が行われるが、わにとかげぎすにはシガテラとの違いを正直言って未だに見出せていない。もうちょっと考えないと・・・。

ということで、こんな感じのレポートになりそうです。