今週あたりの読書まとめpt.2

「終わりなき日常を生きろ」完結編。まとめサイトがあったので内容をまとめ。ある絶対的価値観を持ちながら生きる人に読んで欲しいと思う。そんなに危ない内容ではないので。

知的好奇心に裏打ちされて読み進めていくと、その内容が自分の血となり肉となる、正しい読書とはこうあるべきではないか。この本の節々に生きるヒントは与えられる。少なくとも多元的所属・多元的帰属という概念は僕が正に準拠しようとしている概念そのものであり、自己正当化された気分であった。もう少し宮台の読者でいようと思う。今のところ理解ができないことは合っても、違和感があるとはいえない。。

社会の学校化、コンビニ化、情報化

70年代半ば以降 家庭や地域の「学校化」 学校の成績がいい程度のことで、学校でも家庭でも地域でも全面的に肯定されるようになった。また80年代半ば以降 「コンビニ化・情報化」が進んで、どこにも行かず、誰にも会わずに、暮らせるようになる。そのために、自己形成(尊厳の獲得)において、他者との社会的交流での試行錯誤を免除され、他者と社会とまったく無関係な場所に、自らの尊厳を樹立する。モノと人の区別がつけられず、まったり人を殺せる「脱社会的存在=底が抜けた存在」が出現。精神分裂病の減少と反比例して、人格障害、行為障害が増大する。

脱社会的存在はルサンチマンを埋め合わせる尊大で空虚な自己を持っている。咀嚼するとなんか「悟っちゃってる」人である。組織の運用をしているとこういう人間が一番ウザイです。

「社会の底が抜けている」

「社会(象徴界)」は本来「底が抜けている。」他者とのコミュニケーションの同一性は自明ではない。ラカンによる、乳幼児期の幼児的全能感=母子の想像的関係から、「父親の審級」による去勢によって、「象徴界」を獲得する。すなわち自分の思い通りに行かない他者とコミュニケーションしなければ、何事の達成できない、ことをしる。しかし現代は、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。

ああ、上記で全く同じことを書いてしまいましたw

「表現」と「表出」

「表現」 相手がいて、相手が理解して、理解によって動機づけられたかどうか。「表出」 「表出」が行った人にカタルシス(感情浄化)が起こったかどうか。近代主義は、文脈自由な「表現」(どんな人間でも納得させられる(はずの)論理)に圧倒的な重きを置くことで、共通感覚を前提にしてしか影響力をもたない文脈拘束的な「表出」を、どんどん周辺に追いやっていきます。「表現」を通じて「表出」を救済する以外に政治的に有効な策はあり得ない。

「意味から強度へ」(表現から表出へ)

「言葉」と「動機づけ」がメカニズム的に分離した近代の社会システムにおいては、人は「言葉」に納得するだけでは、(たとえば論理的な理解に達するだけでは)行動に向けて「動機づけ」られません。「表現」によって人を動かしたり人を変えたりできる部分は、むしろごく僅かだと思った方が良い。

「表出」次元で感応すること、「名状しがたいすごいものにうたれる」経験の限りないエクスタシーを忘れ始めている。「表現」によって動機づけられるのでなく、「表出」によって動機づけられる。「真理」に帰依するのではなく、「聖性」に帰依する。「物語」に帰依するのでなく、「名状しがたいすごいもの」に帰依する。

ある種のサウンドデモ素人の乱のような存在は表出を第一義的目的(たのしけりゃいいじゃん!)としているにもかかわらず、逆説的にそれが大きな意味(表現)となりえてしまっているのではないか。僕が始めて松本哉を見た感覚「よく分からないけど凄い」はある種の「聖性」と読んでもよかったのかもしれない。実際僕は素人の乱の凄さを語り続けている。

天皇という文化表象として背景にある日本人の感受性の伝統

近代表現が覆い隠しがちな、人が誰しも持っている感受性の次元、「感覚の共同体」の共通感覚を、日本で育った僕たちは知っている。感受性は、原初的共同体におけるシャーマニズム的な感受性にルーツがある。「物語への納得」よりも「すごいものへの感染」が優越しがちな共通感覚。「感覚の共同体」が信頼できなくなったとき、その空洞化を埋め合わせるために「共同体主義」が噴き上がる。近代的自由の獲得と引き替えに近代が抑圧しがちな感受性を救済する。

宮台は対象は何でもいいといっている割には天皇について言及しまくっている。他の著を読んだがいいのだろうか?宮台の「エセ物語」による公共性問題はココに起因している。。。(?)

サイファ

「世界」は原理的に未規定性を孕まざるをえない。にもかかわらず、私たちは、規定されたものが存在するという前提で、コミュニケーションが成り立つ「社会」を営んでいます。しかし「社会」の中にたえず未規定な「世界」が進入するようでは「社会」は成り立たなくなる。そこに「社会」に露呈する「世界の未規定性」を、一カ所に集めて、「世界」の中の特異点として表象する。その特異点が「サイファ」である。典型的には、「世界」の創造者としての「神」。

人間の本源的な生理として、「宇宙が始まる前の完全な無なんていう馬鹿げた状況はないんだ、何かがあるんだ」と思わずに生きていけない。僕たちは全体を知ろうという志向性を有する。我々の「社会」が例外なく宗教的表象を持たざる終えない理由である。宗教は「端的なもの」を無害なものとして受け入れ可能にする社会的メカニズムである。「神」概念のような「世界」の内と外に同時に属しうる「特異点」の導入によって図らえる。

世界についての不思議感覚は思春期から持っている。以前酒を呑んだ後「宇宙の外は無である。つまり無が有する。」と言う逆説に愕然としたことがあった。(どんな大学生活だよww)しかし、身体性を重視したマトリックスサイファというキャラクターともつながっていると言うところが興味深い。

第三の道

巷の宗教は「行為系宗教」と「体験系宗教」に二分できる。これらの「幸せになりたい」。「ここはどこ?私は誰?」でもない第三の道がある。

①突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染を手がかりとして、②徹底的に論理的な思考によって各宗教ごとに固定されがちな「サイファ」を逆変換し、「世界の根元的な未規定性」に到達すること。③そのことによって、失われた「世界」との関わりを取り戻すと同時に、④「名状しがたい、すごいもの」への感染に対する理論的再解釈で、「名状しがたい、すごいもの」への感染を他者による洗脳やマインド・コントロールに利用されないように防波堤を築く

キリスト教圏では「神の子イエス」という固定された「サイファ」(特異点)に「世界の根源的な未規定性」が圧縮される。日本人は感受性は固定された「サイファ」に求めなくとも日常生活を無害化できるという「名状しがたい、すごいもの」へのオープンさがある。それが失われるとオウムのようなエセ宗教に「サイファ」を求めてしまう。

「世界」の中で自分のポジションは動かしようもない、何もかも動かしようがないんだったら生きていても死んでも大差がないと感じてしまうニヒリズム。これに対して、凡庸に見える宗教的な表象が、凡庸に見える花見の体験が、凡庸に見えるサブカル経験が、「世界の根元的な未規定性」へと通じる扉を隠し持った「サイファ」であることに、驚き混乱し、ついで癒される。そして「名状しがたい、すごいもの」への感染という「体験」の意味を徹底的に考えことで、「世界の根源的な未規定性」へと開かれる。

これって東浩紀島宇宙保存、サブカルチャーによるガス抜きと整合性あるのかな?「名状しがたい、すごいもの」への感染ってつまり「萌え」のことでしょ。(ちがうの?)本を読んだばかりだからもう少し考えてみないと。

サイファ」の逆変換

サイファ」を逆変換する=「世界の根元的な未規定性」に関わる長きにわたる人類の営みが含意している問題設定を理解することが、「世界の根元的な未規定性」すなわち「名状しがたい、すごいもの」へと開いてくれ、「世界」を豊かに体験させてくれる。

ここはわけが分からなかった。観念的にしか理解できん・・・