宮台的コミュニケーション論

宮台真司の「サブカルチャー神話解体」がとても長いのでこっちのコミュニケーション論の方に浮気した。宮台さんのこの論理はあらゆる所で言及されているので、正直読まなくても大体内容は把握できていたわけですが、とにかく僕は宮台さんの論理がとても好きだ。好きだというか本田透的「非モテ」も大塚的「大きな物語」論も、もっといえば東的な「島宇宙保存」も僕には良く分からないから、宮台さんのコミュニケーションによる成熟がもっともしっくり来る、といったところだろうか。

父なき世界(大きな物語なき世界?)つまり外的制約がなくなり「終わりなき日常」が登場した。終わりなき日常は内的制約を顕在化させる(つまりコミュニケーションによる失敗が全て自己責任化する)。この環境が未熟さの自意識を肥大化させ、その忘却装置としてオタク文化や宗教ブームが用意された(自己の全面包括ツールとしての宗教)。ハルマゲドン夢想はすなわち終わり日常の外部を夢想すること(モテない俺でも核戦争が起これば活躍できる!)、それがある種の臨界点に達したのがオウム事件であった。これに対し、全面包括を放棄したのがコギャルやらブルセラ女子高校生であり、宮台はここに処方箋を見出している。終わりなき日常を漠然とした意識のまま生きろ。サリンを巻くよりは百倍マシ。このような論理構成である。

ゼロ年代宇野常寛のいう決断主義(勝者こそ正義)的な社会として成立してしまっているのであれば、「終わりなき日常」からの打開工作は未だに終わっていないのだろう。デスノートは一体誰が使えばいいのだろうか?